聖書Q&A

聖書Q&A

聖書に関する質問に浅井牧師がお答えするコーナーです。良い質問への答えを掲載しています。

Q1 人は、どうしたらクリスチャンになれるのでしょうか。洗礼を受けないとクリスチャンになれないのでしょうか。

A

まず、「クリスチャンになる」とはどういう意味かを定義しておかないとこの質問には答えられないですね。もし、ただ単に宗教的な意味だけでクリスチャンになるということを考えるならば、どこかの宗派や教会の会員になって、そこに属せば、クリスチャンになったと言えるでしょう。ちょうど、日本人が「私の家は仏教です」というのと同じです。仏教徒といっても、普通は別に何かを心から信じているわけではありません。そう意味での「クリスチャンになる」というのであれば、洗礼を受けることは、その教会なり、宗派に属することを意味し、それで「クリスチャンになった」と言えます。

聖書の言うクリスチャンのことは、キリストに従う者のことであり、キリストの弟子になる人たちのことです。そして、そのキリストは誰なのかと言えば、あなたやわたしの罪のために十字架に死でくださった方です。つまり、本当の意味でのクリスチャンとは、イエス・キリストが自分の罪のために死んで下さり、また3日目に死からよみがって下さったことを心で信じ、またそれを口で告白する人のことです。聖書には次のように書かれています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです

ローマ人への手紙10:9

ここでは、イエスを信じて、口で告白するとクリスチャンになれるというのです。ここで注意してほしいのは、「洗礼を受けるならば」とか、どこかの「教会に属するならば」とか、もっと言えば、「教会に通うならば」という条件もついていないことです。これはちょっと驚きですが、これが真理です。人間の救いは、非常に霊的なものであり、あなたは、自分と神様との個人的な関係のみで救われます。親がクリスチャンであるとか、教会という建物に通うとか、クリスチャンの何かの行事に参加するとか、そういったものはみな、あなたの外側の上辺のことであって、それによって、あなたの罪が赦され、あなたの心が変わり、あなたの人生が変わるわけではありません。クリスチャンになるとは、今までの生き方を止め、キリストにある新しい人生を歩むことです。それは、神の救いの力なくしてはできないことです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました

第2コリント5:17

Q2 天国と地獄は本当にあるのでしょうか。人間は死んだら、もう存在しないと思いますが。

A

天国と地獄があって、人間は死んでからそのどちらかに入れられる、というのは、世界中どこの文化の人たちも、またいろんな宗教の人たちも信じているようです。しかし、それを数学や科学のように証明することは、残念ながら不可能です。ただ、聖書に書かれていることを、そのまま述べることしかできません。そして、それを信じるか信じないかは、あなたにかかっています。

聖書は確かに、この物質の世界で生きる人間が死んでから入る死後の世界について述べています。しかし、実は、人々が思うほど、聖書は人の死後の世界がどのようなものであるかを述べていないのです。それよりも、聖書はその99パーセントが、人間がどのようにこの地上で生きるべきか、また神様がどのように私たちの地上での生活に関して働かれるかということについて述べたものと言えます。これはちょっと驚きです。さて、死後の世界に関することばとして典型的なものは、次のようなものでしょう。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、、、

ヘブル9:27

おそらく、天国と地獄に関して一番具体的に触れているのは、ラザロと金持ちの話しでしょう。

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、ラザロというひとりの貧しい人が、できものだらけのからだで、この金持ちの門の所に横たえられており、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた

ルカ16:19以降

この話しの中では二人の人が死んで、その後入って行った所について書かれています。これは、イエス様の話されたもので、普通はたとえ話とよばれる種類の話しです。しかし、たとえ話というのは、固有名詞を使わないのが普通ですが、上のたとえ話では、「ラザロ」という固有名詞が使われているのが非常に不思議です。あたかも、イエス様が実際に起きた話しをしておられるように思えます。いずれにせよ、この話しによれば、死んだ人間が死後も存在しており、入る場所が同じではないことが分かります。一つは「アブラハムのふところ」、もう一つは「ハデス」で、ハデスというところはあまりいい所ではないようですね。

どうしてその金持ちはハデスというところに入れられてしまったのでしょうか。またこの後どうなるのでしょうか。それはまた、次の機会にしましょう。ただ、次のようなみことばがあります。

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた

黙示録20:12-15

このページは2008年5月のアーカイブ (Wayback Machine) に掲載されていた浅井牧師による聖書Q&Aをもとに、現在のサイト向けに再掲載したものです。